「アンジェ!ちょっと助けてちょうだい!」
フェイ家の女神、シスカ・ル・フェイの思わぬ強制終了によって、危うく夕飯を食いっぱぐれるところだった生活能力皆無の少女、アンジェリカ・ル・フェイは、漆黒の髪と深海の底を思わせる青の瞳が印象に残る自身の主治医、レン・ミヤムラの奢りで、とある酒場で美味しい料理にありついていた。
ご機嫌な様子の少女が残しておいた大好物の最後のひとかけを口に運ぼうとした矢先、ニューハーフの店主、ベリンダ・ファティマが、バーカウンターの端から店中に轟く大声を上げる。
「げほっげほっ・・・」
「だ、大丈夫、アンジェ・・・?」
予期せぬ大音量に驚いて盛大に咽せた少女の背中を慌ててレンがさすり、店内の他の客たちは何事かとざわつくが、息を整えたアンジェリカはというとそんな衆目をものともせず、先ほどの店主と同じくらい大きなボリュームで抗議の声を上げるのだった。
「今度は何だ、夕飯くらいゆっくり食べさせてくれたまえよ。」
少女は経験則からそんなふうに物を言う。
こういう時は大概、"機械の修理"に駆り出される。"蜃気楼"などはもはや関係ない。
彼女のただの勘がそう警告を発している。
この街は至るところで《電子溟海》への接続遮断が起きており、その性質を利用する形で表舞台の監視網から逃れ続ける訳ありの人間種も多く棲まう、いってみればスラム街のような場所だ。
そんな溟海にはピンからキリまで様々な電子情報が溢れているわけだが、そういった仮想領域への日常的な接続を前提とした既存機器類が、情報自動更新による定期メンテナンス不足で不調を来すのはもはや当然の帰結、というわけで・・・。
要は、説明書どおりの使い方をしていない。そういう状況が多すぎるのがこの街の現状だ。
「もぉ~、何にもしてないのにどうして動かないのよぉ~、このテレビ。リアム王子が出るから見たかったのにぃ~!」
実に個性的な見た目の大柄な店主、ベリンダはそう言うと、うんともすんとも言わない旧世代の大きな液晶画面に向かってその逞しい拳を振り下ろす。
「き、君は馬鹿か!貴重なアンティークパーツ相手になんてことを・・・っ!」
アンジェは非常に焦って、座っていた椅子から勢いよく立ち上がると、バーカウンターの中へずかずかと入っていき、ベリンダの頭をこれでもかといった勢いで思いっきり叩く。
「あらやだいったぁぁ~い!アンジェあんた何するのよぉ~!」
大柄な男、いや、女性は、愛らしい見た目にまったくそぐわない暴力的な少女の行いに大騒ぎするが、アンジェはというとそんなベリンダを「うるさい」と一喝しつつ押しのけて、自身が"アンティークパーツ"と呼んだ黒い液晶画面の裏側を真っ先に確認する。
「配線抜けてるだけじゃないか!どうせ乱暴に動かして引っこ抜いたんだろう!?」
そもそも《電子溟海》への接続云々すら関係ない初歩の初歩といった原因が判明して、
「こういうの疎いやつの"何もしてない"は絶対に何かしてるんだよ!」と罵りながら機械音痴の店主を勢いよく指差すご立腹の少女の様子を見て、なぜか店内の顔見知りの何人かがばつの悪そうな表情に変わるのをひしひしと感じながら、レンは二人の仲裁に入る。
「まあまあ、誰にでも得手不得手はあるよ、アンジェ。ほら、ベリンダさんも・・・。せっかくアンジェが組んでくれた物なんだから、もう少し優しく扱ってあげてよ。」
「あらやだごめんなさ~い♡ そこにあるの忘れてついぶつかっちゃうのよぉ~♪」
ともすれば著名人級の顔面偏差値を持つ美青年から穏やかな注意を受けた店主は、とても嬉しそうにその手をがっしりと握って、青年にのみ謝罪しながらじりじりとその距離を詰めている。
「ほら、君の大好きなリアム王子とやら、映ったけど!?」
時間にすれば物の数十秒、レンの頬がベリンダの派手派手しいピンクのリップでほんのり色付くまでの短い時間で、アンジェは目の前の物理画面の点検作業を完了していた。
心なしか得意げな少女の、細い手首についた小型端末の先で光る空中投影パネルには、何かのプログラムを書き換えたと思われる文字列が規則正しく点滅している。
「あら、アンジェったら、さ・す・が・仕事人♡」
おそらくアイドルか何かなのだろう。レンとはまったく違うタイプの陽気なイケメンが画面にでかでかと映し出されると、ここまでの流れなど全て忘れたかのようにご満悦な笑みを浮かべるベリンダは、アンジェにも抱きついて勢いよくその小さな頬にキスをする。
そんな彼、いや、彼女に心底迷惑そうな顔を向けたアンジェは、
「君は母親の腹の中でもう一度他人との距離感を学んだ方がいい!!」
・・・と叫びながら逃げるように元の席に戻って、それから微妙に冷めてしまった料理の残りを何とも言えない表情で眺めると、ため息をつきながらも気を取り直してフォークとナイフを握るのだった。
「あはは、アンジェ、ほっぺた、まっピンクだよ。」
一方、いつのまにやら他の店員から暖かいおしぼりを手に入れて、その端正な顔の右頬についたキスマークを手慣れた様子で拭っていた色男は、少女の隣に戻ると彼女の頬にもくっきり付着したままのベリンダの口紅を落とそうと同じタオルをそっと押し当てる。
「・・・香水くさいぞ、君。」
「アンジェだってそうだよ。」
何だかんだ言いながらもされるがまま自分は食事をやめないアンジェと、そんな暴君を甲斐甲斐しく世話するレンは、端から見るとまるで仲の良い兄妹のようだ。
その麗しい光景に、この殺伐としたセクトマイノリアで生き抜く常連の大人連中がほっこりしたのもつかの間、またもや店主ベリンダから奇声に近い悲鳴があがり、一同はテレビに注目し直すこととなる。どうやら、件のアイドルが引退を発表したらしい。
暫くしてその番組が終わり、オーバーに泣き崩れ続ける店主を常連の客たちが口々に慰め始めるあまりにも賑やかで混沌とした状況の中、いつもならその流れに当然のように加わるはずの社交的なレンの深青の瞳は、相変わらず画面に流れ続ける"次の映像"の方に釘付けになって止まってしまっていた。
「もしかして知り合いかい?」
いち早く異常を察したアンジェは、怪訝な顔でレンに問いかける。
至極真面目なニュース映像には、随分とお堅そうな風貌の白衣の男性が映っている。どうやら彼は医学分野で大きな功績を挙げたらしい。
「あ、ああ。昔の同僚だ。」
動揺のあまり平時のポーカーフェイスを忘れたレンは、少女の問いに思わず答えてしまってから、「まずい」といった表情で口をつぐむ。
「ふーん? もしかしてこの男は、僕の知り合いかい?」
「・・・。」
「沈黙は肯定と取るよ?」
図星をつかれて黙り込んでしまった青年の周りに舞い踊る、どうにも優柔不断な動きの胡蝶がわかりやすく「Yes」を告げていた為に、アンジェは気まずそうな青年の答えを待たずして勝手に話を進めていく。
「内容は・・・。へぇ。君の得意分野だ。それにこの治療、機械生命工学の知識もかなり必要だね。名はキルヒ・・・、ああ、レイグラッド家のお坊ちゃんか。たしかフェイ家との友好に関してあまりいい噂は聞かないお家柄だけど・・・。でも、彼自身に黒い部分はなさそうだ。真面目ないい青年じゃないか。
・・・なるほど?
彼は君の友人で、これは元々僕らも一枚噛んでいた研究、というところかな?」
かつて"稀代の天才"と呼ばれた利発な少女は、その呼び名の通りに頭が良すぎるのが難点だ。レンはそんなふうに思う。記憶などなくとも、彼女はその特別な視野で対象の心情を精密に読み取り、さらにその他の既存情報と組み合わせながらおおよその答えを弾き出す。
とにかく恐ろしく察しがいい。いつものことなのだ。
「噛んでいたんじゃない。元々は僕の卒論のテーマだよこれ。卒業してからもずーっと研究しててさ。キルヒは僕が医師として働き始めてから親しくなった同僚で、ほら、僕は庶民の出だから。その辺察していつも手伝ってくれてた。
もちろん、アンジェもね。
まあ、君たちは反りが合わないのか、それとも御家の問題だったのかな、僕にはよく分からなかったけど、当事者の僕を差し置いてよく喧嘩してたよ。」
観念したように、レンはアンジェが知り得ない昔の話をし始める。
そんな彼の表情は今にも泣き出しそうなほどに懐かしそうで、アンジェは直感的に「ああ、いい想い出でよかった」と安堵する。
気持ちの種類を察することはできても、実際に何があったかまではわからない。少女の持つ視野の弱点のひとつだ。どうしてレンが急に動揺し、驚いたのか、"胡蝶"が報せてくれるのはそこまでで、結局のところ、その理由は本人に聞くしかないのだ。
「そうなのか。これだけ革新的な治療法となると、資金提供の率の話とか?」
「うーん、そういうお金持ち同士の話もたまにはしてた気がするけど。そういうのより、"今日はどっちが僕と遊びにいくか"とか。 ほんとくだらないことの方が圧倒的に多かったよ。皆で一緒に行けばいいのに。しかも僕、連勤明けでも行かない選択肢は選ばせてもらえなかったし。」
「・・・そ、それは災難だったね。」
少女はどうにも居心地が悪いといった顔で、クスクスと笑う青年からその翠の瞳を逸らす。
どうやら過去のアンジェリカ・ル・フェイには、今の彼女にはない破天荒さがあったらしい。
暫しの穏やかな沈黙の後、
「ねえ、アンジェ、君は一生、表舞台を避けて、この斜陽の幻都でシスカと生きていくつもりなの?」
レンは虚空を見上げながらアンジェにそんな問いを投げかける。
「・・・それはどういう意味だい?」
どうにも何か含むところがあるようなレンの物言いに、アンジェは怪訝な顔をする。
「・・・君はさ、本来、彼みたいな人の横に立っていたはずなんだ。さっきのあれ、まるでキルヒの単体功績みたいに報道されてたけど。」
アンジェの目には、あまり表情の変わらないレンの周りに、
しかし絶対零度の氷のように冷えきった色彩の"胡蝶"が舞い始めるのが視えていた。
「(ああ、嫌な感じだ。)」
少女は咄嗟にそう感じていた。
彼は自分のことで怒ったりは滅多にしない。
こういう冷たい色彩が見える時は、大抵、アンジェの不利益を案じていたりする。
「キルヒ君の為し得た功績に、実は僕も一枚噛んでましたと名乗り出ろ、と?亡霊のこの僕が?」
「キルヒは悪いやつじゃない。そんなことしなくても、君が生きていると知れば・・・!」
「最新医療付きの好待遇で迎えてくれるってわけかい?」
アンジェは思わず鼻で笑いながら、彼のあまりにも浅はかな言葉の先を予想してみせる。
「・・・っ。」
どう言おうかと思案する少しの間すら与えられずに、図星をつかれた青年は言葉に詰まる。
そう、レンはアンジェの生命維持に関して異常なまでの執着を持っている。今も尚、精神移管の後遺症に苦しむ少女の容態は、言ってみれば"誰も経験したことのないアンノウン"だ。何せ、同じ目に遭ったであろう被験体が居たとして、その存在は世間的には公表されていないのだから。
ともすれば、根本的な治療法など確立されているわけもなく、対症療法で騙し騙し日々を過ごすしかない。つまるところレンが心配しているのは、少女の"急変"に自分が医師として対応できなくなるかもしれない可能性なのだ。
「レン、これはそんな簡単な問題じゃないよ。
当時の僕の身に起きた事象から察するに、"人間種不死計劃"に関する数々の研究は現状、世間一般的には倫理観を問われる大問題が山積みの機密事項案件の宝庫だ。
これでも僕は名門フェイ家の令嬢で、跡取りだった人間だよ。記憶を失って尚、僕の政治的視野は君よりも圧倒的に広い。僕は静かな余生を送りたいんだ。変な気は起こさないでくれたまえよ。」
「(何よりシスカも、レンも、危険に晒したくない)と」、少女は内々に思いを馳せる。
お世辞にも治安のいい街とは言えないが、少女はこの街での何気ない日常が好きだった。仮想領域上のデータベースに残る数々の電子文献がアンジェリカ・ル・フェイという人物の偉大さを伝えるたび、まるで他人事のようにその文字列に目を通す《もう一人の自分》が居る。
記憶を失うというのは、実はそこまで悲劇的な事象でもないのだなと、経験してみてそんなふうに初めて思った。
「ああ、"過去の自分"は凄かったんだな」と、そんな感想だけが心の内に溜まっていく。
「悪意を持たない機械種と一緒に居て、居心地がいいのはわかるよ。一度は死にかけたんだ。人間種そのものに嫌気が差すのも無理はないと思うけど!
でも、本来の居場所へ君は戻れる。治療だって受けられる。君は、こんなところで燻っていていい人じゃない・・・!」
"激情"、と、そう表現する以外に何と言えばいいだろう。
熱く燃えさかる炎を纏った大きな"胡蝶"が、青年の周りに揺らめいている。
「(忙しいことだ。)」
蒼から朱へ。青年の感情の起伏を、アンジェはどこか醒めた瞳で眺めていた。
「キルヒ・ド・レイグラッドという人物を、今の僕は知らない。信用できない、と言っているんだ。
彼の行動如何によっては、この街に要らぬ注目を集めてしまうかもしれない。
シスカは違法な存在だ。処分される可能性は否定できない。
君は、捕まってしまうかもしれない。
そんな危険を冒してまで、手に入れたい物なんかないよ。」
諭すつもりで言ったアンジェの言葉がレンの傷を大きく抉るのを、少女はたしかに感じていた。こういう時、昔の記憶が恋しくなる。
相手の感情の機微がいくら精密に視えようが、結局のところ何が地雷かなんてわかりやしない。
「君は、僕のことなんか気にしなくていい!!」
普段は温厚な青年が突然あげた大声に、店内がざわめく。
そんな彼らにアンジェは右手を軽く上げて、「大丈夫だ」と合図をしてみせる。
店内の雰囲気が次第に「なんだ、いつもの痴話げんかか」といった空気に変わるのを感じながら、少女は"やれやれ"と言った様子で、下を向いてしまった青年に尚も落ち着いたトーンで話しかけた。
「そういうわけにもいかないよ。君は僕の、命の恩人だ。
君が言ったんだぞ。"生きることを諦めるな、知ることは力だ"って。
失った"人体構成要素"の穴を四年かけて必死に埋めた結果が、"今の僕"だ。
君に"新たな人格"を否定されるのは、いくら僕と言えども少し心に来る物があるよ。」
「・・・!? 違うっ! 否定なんて・・・。僕はただ、君をより安全な場所へと・・・」
「僕の居場所は、僕が決める。」
僕たちは皆、生まれ落ちたその時から正しき道を探して彷徨い歩いている。
黄昏刻、シスカに向かって語った言葉がここへ来てまた思い出される。
アンジェはカウンター席の細長いテーブルの上にゆっくりとその右頬を添えると、左隣に座るレンを見上げて穏やかに微笑んだ。
「君が望む正道と、今の僕が望む心の在り処は違うのかもしれないけれど。
最期まで見守ってくれないかな。"先生"?」
「・・・っ。」
過去の記憶を忘れることのできないレンに、記憶を無くした今の少女はきっと、とても酷なことを言っているのだろう。溢れる気持ちを処理しきれず、止まらなくなってしまった涙を隠そうと顔を背けた青年を気遣って、アンジェは一度むくっと起き上がるとその左頬を添え直す形でテーブルへともう一度寝そべった。
「(君の居場所も、早く見つかるといい。)」
ニュースに映ったレイグラッド家の青年を見つめるレンの複雑な気持ちに、アンジェが気付かなかったわけはない。"胡蝶"は全てを教えてくれるのだ。
彼の医学者としての"未練"を、罪を犯した"後悔"を、元居た場所への"羨望"を。
そして、それら全てを押さえつける、僕に対する強烈なまでの"罪悪感"を。
第一級殺人罪は、言ってみれば、死刑確定の大罪だ。"恐怖"を感じないわけもない。
それでも僕を華々しい表舞台へ戻そうとする青年の心は、きっと"過去のアンジェリカ・ル・フェイ"に捕らわれたままなのだろう。
「(まったく、困った主治医だ。僕はいつまで寝たふりしてればいいのかな?)」
「あらやだレンちゃんどうしたの!? アンジェにまたいじめられた!?」
渡りに船とはこのことか。泣いているレンに気付いたのだろう。
賑やかな店主が駆け寄ってくる音に「(またとは何だ人聞きの悪い・・・)」とは思いつつも内心ほっとしていたアンジェだったが、しかし次の瞬間、頭に鈍い痛みが走って、条件反射で突っ伏していたテーブルから堪らず顔を上げることとなる。
「何するんだ、痛いだろ!!」
「あ~ら、さっきのお返しよ♡レンちゃんもこんな暴力女やめていつでも私のとこ来ていいのよぉ~♡」
「君に言われたくないよ! だいたい"本命"はどうした?さっきまであんなに大騒ぎしてたじゃないか。」
「んまぁ~!アンジェったらひどいわ!これでもわたし傷心中なのよぉ~!!」
ニヤニヤしながら煽るアンジェに、ベリンダは大粒の涙を浮かべて抗議する。
「レンちゃん、やっぱりこの女だめよ!性格悪すぎよ!?
こんなに泣かされて、かわいそうに・・・っ!
これはもういじめられた者同士慰め合うのがいいわ。そうね、今晩、どうかしら!?」
「・・・あの・・・ベリンダさん・・・、今、僕そんな気分じゃ・・・・・・って、ぐるじぃ・・・」
レンの首元に勢いよく抱きついた大柄なベリンダが激しく動く為か、さらさらとした漆黒色の髪は乱れ、その頭は大きく弧を描くようにぐらぐらと揺れている。
「・・・ねえ、ベリンダ。レン死にそうだよ?」
「あらやだ。レンちゃん死なないで!」
おそらく呼吸がままならない状態であろうレンをじーっと見つめながら冷静にツッコミを入れるアンジェの言葉で我に返ったベリンダは、もはや息苦しさで涙目になっているとしか思えない美しい青年をパッと離すと、ニコニコしながら咳き込む彼の背中をさすっている。
「(ねえ、レン。君は一人じゃないんだよ。)」
ベリンダに続く形で酒の入ったグラスを片手に、次々と青年の周りに集まってくる店の常連たちは、彼が涙目になっているのをからかってみたり、まったく関係ない世間話を持ちかけてみたり、無理やりお酒を飲ませようとしてみたり、その行動は様々だけれど、皆一様に、似たような胡蝶を連れている。
彼がこの街に居着いてからというもの、その医者としての手腕に救われた者は多い。
元々は、指名手配犯でありながら瀕死のアンジェをどうにかこうにか治療しようと、さらに罪を重ねて不法な医療行為の数々に手を染めた彼なわけだけれども、ここで暮らす皆はそんな事情を詳しくは知らないし、例え知っていたとして詮索もしないから。
そうして「訳ありの美青年」は、いつしか皆に頼られる「闇医者の先生」となっていった。
「あら、アンジェ。そのイヤリング・・・」
"レン先生"の周りに集まって大騒ぎを始めていた店の常連仲間の一人、褐色の肌を持つ明るい女性が、ふと隣に座っていたアンジェの耳元に光る透き通る水のような石に気づき、声をかける。
その瞬間、彼らにもみくちゃにされていた青年の肩が一瞬ビクッと震えたのを見逃すわけもないアンジェだったが、彼女はそれを無視して、声を掛けてきた女性に向かって普段通りに微笑んでみせた。
「ん?」
「とっても綺麗ね!どこで買ったの?」
「ああ、これかい?すまないが、これは前に居た場所でしか手に入らない代物でね。」
"想い出の品なんだ"と明るく言葉を続ける少女に、褐色肌の女性は、
「あらそうなの、なーんだ残念!真似しようと思ったのに。」
とお茶目な笑顔を覗かせた後、暫くはアンジェとたわいもない女子トークに興じると、騒ぎが落ち着き始めるのと同時に、少女たちに無邪気に手を振って自分の席へと戻っていく。
「アンジェ、それ、さすがに人前ではしない方が・・・」
「君は心配しすぎだ。こんなもの、ここでは何の価値も持たないよ。」
少女たちの様子をずっと心配そうに見つめていたレンがおずおずとそんなことを言うと、アンジェは自身の耳に垂れ下がる飾りに触れて笑う。
少女を飾る美しい水滴を閉じ込めたかのような宝石。それは、名門フェイ家の証明だ。もし売り出されれば時価数十億は下らない、と謂われる希少な一点物らしい。
と言っても、アンジェリカ本人はこの耳飾りに特に深い思い入れはなかったりする。愛用している理由は、これが少女の手に渡った経緯が実に印象的だったからに他ならない。
「だいたい、君が悲壮な顔して持ってろって言ったんじゃないか。」
「人前で付けてとは言ってないよ・・・。まあ、いいけど・・・。」
先ほど多方面から随分と酒を注がれたと見えるふて腐れ気味の青年の顔は、少し赤い。
そう、少女は知っている。
この耳飾りを付けたアンジェを見つめるレンの"胡蝶"が、いつも少しだけ穏やかになるのを。
「これにどれほどの価値があるのか、今の僕にはわからないけどさ。」
「・・・うん。」
「君、これを活かしていた頃の僕に、こんな寂れた酒場で夕飯を奢るようなことはあったのかい?」
「・・・あるわけないでしょ。天下の"アンジェリカ・ル・フェイ"だよ。」
「奢られるのはいつも僕だったよ・・・」と悲しそうに言って顔を背けてしまったほろ酔いの青年を眺めて、少女は楽しそうに笑う。
「なら、いいじゃないか。好きな女の子にご飯を奢る。男冥利に尽きるだろう? それとも何かな。何者にもなれないただの"アンジェリカ・ル・フェイ"が相手では不満かい?」
「・・・君は、相変わらず自信家だ。」
「ほんっと昔から、君には敵う気がしないよ・・・」と消え入るような声で言いながら、耳まで真っ赤になってテーブルに突っ伏してしまった青年の頭を、少女は優しく撫でていた。
「僕が失った"時間"を、"感情"を、君がもう一度くれるんだろう?これでも君には期待してるんだ。頑張りたまえよ。」
「本人から全力で応援される片思いって・・・。」
「職場の上司みたいな言い方しないでよ・・・」と複雑そうな表情でアンジェを見つめる美しい青年はまるで捨てられた子犬のようで、アンジェは堪らず笑い出す。
「なに、仮にも雲の上の存在だった想い人が、今は手の届く場所に居るんだ。過去の僕には相手にされてなかったんだろう?それに比べれば前進じゃないか。こんな状況も悪くないだろう?」
「いやぁ、乙だね~」と、まるで熟年のおじさんのような物言いをするアンジェの言葉に軽く傷ついた青年ではあったが、実際告白する勇気すら出せないまま一度目は終わりを迎えたのだから何も言い返せる言葉などなく、そんな昔の馬鹿な自分を思い出して、その顔には自嘲的な笑みが漏れる。
「そうだね。悪くないかも。」
「ふふっ、そうだろう?わかったら今を楽しみたまえよ、時間は有限だぞ、青年。」
「も~、アンジェ何歳なの。おっさんっぽいからやめなよそういう言い方。」
「黙ってれば可愛いのに」と続けたレンに対して照れた様子でそっぽを向く少女に食後のデザートを勧めてご機嫌を取りながら、青年はひっそりと思うのだった。
今の君との穏やかな日常に、不満なんて、あるわけがない。
僕を忘れても尚、君は、どこまでも君で。
その底なしの優しさに、僕は何度だって惹かれてしまうんだ。
でもさ、それでも僕は・・・
またいつの日か、"今の君"が表舞台に立つ姿を見てみたいと。
願わずには居られないんだ。